1. 時代背景
筑波研究学園都市がスタートしたのは、東京への人口集中を分散するために官庁の集団移転が閣議決定された1961年であると言われていますが、この頃は西欧と日本で経済の成長が著しく、やがては米国の様な車社会が予想されていました。豊かさへの希望に満ちた時代でもあったのです。しかし、その一方で1962 年にはレイチェル・カーソンの「沈黙の春」が出版され、 1972年ローマクラブの警告「成長の限界」が話題となりました。米国のカリフォルニア州のデイビス市にエコシティの先駆けとなる、マイケル・コルベットの「ヴィレッジホームズ」が建設されて世界的な話題になったのもこの頃です。
筑波研究学園都市の設計に、「コンパクトシティ」、「歩車分離」、「ペデストリアンデッキのネットワークによる自転車優先の域内交通」等の発想があるのは、この当時の知識層を中心に米国型の自動車を中心とした大量消費社会に対する疑問と批判があったことが時代背景として考えられます。
1960年代の日本は未だ自家用車が普及する前であり、首都圏は住宅難で近郊の住宅価格が高騰し、流通する商品も東京と地方都市では大きな格差がありました。筑波研究学園都市を造るには、研究機関の移転だけでなく、移転して来る住民への住宅の供給と消費生活も含めた新都市建設が必要だったのです。
しかし、その後は1970年代から急速に自家用車が普及し、日本も現在の様な車中心の社会になり、ロードサイド店舗や大型のショッピングモールでは世界のブランド品がどこでも手に入る時代になりました。
この間の主な出来事
1963年
筑波地区に研究・学園都市を建設する閣議了解4,000ヘクタール、用地の取得造成は日本住宅公団
1963年
首都圏整備委員会試案( NVT 案)集落潰す集中的な全体計画地元の反対で変更
1971年
高エネルギー物理学研究所設立( KEK; 現在の高エネルギー加速器研究機構)研究機関の移転が進む。
1983年
竹内知事が六町村合併を提案したが、合併に至らず。
1983年
つくばセンタービル開業
1985年
科学万博開催 西部筑波店開業
1987年
竹内知事が再度合併を提案、五町村合併合意。
つくば市がスタートした。(茎崎町は2002年に合併に参加した。
1992年
TX 沿線開発計画発表2 000ヘクタール、計画人口20万人茨城県と住宅公団が、集落を含む大規模区画整理事業を発表した。
1994年
TX沿線開発区域を、2,000ヘクタールから1,450ヘクタールに縮小した。
集落潰す計画に地元が反対し、 区画整理事業区域から 集落を除外した。
2005年
TX 開通 西武の北側の駐車場を潰して、駅ビルの商業施設「キュート」が完成 。駐車場は全て立体駐車場になった。
2017年
つくばセンター地区の西武筑波店が閉店した。
2019年
つくば市がクレオを20億円で買収してリニューアルする案を出したが、議会の賛成を得られなかった。
2021年
つくば市が新たに「つくばセンタービル及びつくばセンター広場のリニューアル」案を出したが、まちづくり会社の経営形態と改修工事の内容に問題があるとして、住民監査請求・住民訴訟 が行なわれている。
2. 中心市街地の現状
2-1 分散型コンパクトシティの理想と現実 研究都市と学園都市と旧町村部
首都圏整備委員会が閣議了解の1カ月後に出した試案( NVT 案)は、集落を潰す集中的な全体計画であったために、地元町村の強い反対によって、当時の燃料革命で利用度が低下していた薪炭林の松林を中心に研究施設は分散し、中心市街地は、南北2本と東西2本の幹線道路に囲まれた地区を中心に、コンパクトシティを目指しました。
当初は「研究・学園都市」として、研究都市と学園都市を分けて考えていた様ですが、この考えは正しいと思います 。大学は知的な闘争と新陳代謝によって学問を進歩させるので、コンパクトキャンパスで知的な闘争の場とすることが望ましいのです。近年、郊外に移転した大学がやたらと広いキャンパスを求めて規模拡大を競っていますが、これが本当に大学の発展になるのか疑問です 。学園都市と中心市街地はコンパクトキャンパス、コンパクトシティとして、考える人達の知的な賑わいの場を創造しようとした理想はその通りだと思います。
しかし、世界を相手に目的を持った研究の成果を競う研究機関の場合は、これ
とは違って将来の発展余地があることが重要です。研究施設の集中立地の相乗効果を考えた場合は、新しい分野の研究施設用地は特に重要です。当時の行政当局は、研究拠点都市の発展余地の重要性には気づいていなかった可能性がありますが、筑波研究学園都市の建設に携わり「ミスター・つくば」と呼ばれた国土庁の河本哲三さんは、TX 沿線開発による地価の高騰で新しい分野の研究施設の立地が困難になることを危惧していました。
河本さんのこの危惧は現在、現実のものとなっており、つくば市の研究学園地区に新たな研究施設の用地を確保することは、空間的にも価格的にも困難な状況にあります 。研究施設用地の場合も、大学と同様に新陳代謝によって新しい分野の研究施設用地を生み出すことは必要なことです。高エネルギー加速器研究機構の研究計画の変更により当面利用する計画が無くなった 46 ヘクタールの研究施設用地は、高エネ研ばかりでなく、新しい研究分野の研究施設用地としても貴重な用地なのに、日本住宅公団の後身であるUR都市再生機構が 「不要な土地」として、誰彼かまわずに売りに出してしまったことはあまりにも見識を欠いています 。(この件に関しては筆者の別稿「つくば市は研究施設が集約された国際的な研究拠点都市を目指せ」を参照してください 。)このため、研究機関が集積した研究拠点都市としての筑波研究学園都市は、現在存亡の危機に立たされています。国と県と地元のつくば市と、研究者と市民が協力して「研究・学園都市」の将来を考えなければならない時期に来ています 。
2-2 ペデストリアンデッキの功罪 つくば駅周辺は 中心市街地足り得るか?
ペデストリアンデッキは、立体的な「歩・車分離構造」で、多くは鉄道駅の周辺などで採用されている様です。歩行者と鉄道は、立体的な完全分離が必要だからで す。つくば 市の場合は、中心区域全体を歩行者と自転車を車道と分離する構造としています。歩行者と自転車を優先して車道から分離する理想を先駆的に実現した街の構造であり、これによって歩行者や自転車は安全に建物間を移動できます。しかし、幹線道路を跨いで域内の歩行者と自転車を優先する高架の歩道(自転車道)であるため、ペデストリアンデッキに面した建物の玄関は2階部分になります。このため、外部から車で来る来訪者、主に旧町村部の住民)は、階段を上がるか、車で急な坂道を上がって狭い駐車場に車を停めなければなりません。
しかし、つくば駅周辺の中心市街地は、外部とのリンクを車道に頼ってい ます。その後TXが開通しましたが、TXは東京都心とのリンクであって、周辺部とのリンクは車道です。外部とのリンクを車に頼りながら、域内の歩行者と自転車を優先する矛盾は、周辺部からの来訪者にしわ寄せが来ます。車で来た来訪者は、階段を昇り降りするか、急な坂道を車で登って狭い駐車場に駐車しなければならないのです。周辺部の市民(旧村部の市民や足の弱った人には不便な街になっています。
その後日本も米国型の車社会になり、六町村が広域合併してつくば市となったために、w車に依存した周辺部からの来訪者の数がより増加しました。中心市街地には、市役所、警察署、郵便局、法務局などの公共施設の予定地が配置されており、合併の前にペデストリアンデッキに面して警察署と郵便局、法務局が造られましたが、広域の利用者が増えるにつれてその使い難さが顕著になりました。
このため、六町村が合併した後に、市役所の予定地につくば市役所を建設することは断念され、TXの沿線開発の区画整理事業で造成された幹線道路沿いに、広い駐車場を持つ「ロードサイド店舗型」のつくば市役所が建設され まし た。つくば中央警察署もペデストリアンデッキの不便さに耐えかねて移転し、TXの沿線開発の幹線道路沿いに「ロードサイド店舗型の警察署」が新たに造られました。ペデストリアンデッキに面した郵便局が移転するのも時間の問題と思われます。この様に、ペデストリアンデッキの街は、外部から車で来る来訪者には冷たい街なのです。我々旧町村部の住民が竹園地区の新市街地に感じた違和感は、薄暗い駐車場に車を停めて階段を上がらなければならない構造にあったのです。
しかし、TX が開通し、中心市街地は東京の都心と最短で45分で直結された。近年、始発駅であるつくば駅からの徒歩圏には高層マンションが進出し、つくば駅周辺の徒歩圏の人口が急増しています。これは土地利用の市場原理と、蓑原先生のご指摘の様に従来の中低層の街並みを保全する地区計画の規制の甘さによるものですが、中心市街地は、ペデストリアンデッキによって、脱車社会のコンパクトシティとしてよみがえるかも知れません。
それでもつくば市内の周辺部との車道によるリンクを軽視した構造であることに変わりはありませんから、中心市街地は「つくば市全域の首都としての中心市街地」にはなりません。「竹園 ・吾妻 ニュータウン」としてつくば市の一部として扱うべきであり、現在の様に「つくば市の中心市街地の活性化」と称して全市的な投資を行っても、つくば市が言う様な 「中心市街地の賑わいが周辺部にも波及して、周辺部の市民の利便性も向上させる」ことは無理だと思います。
2-3 都市計画に必要な住民と来訪者の視点 幹線道路と 45 度 で交差する
道路 の 設計 意図は車社会への対応(駐車場)の設計の 古さ が、今になって学園中心部が時代遅れとなって衰退している理由で す 。外部とつながる幹線道路と区域内の道路、 さらに 区画の道路 と の区別が曖昧で、北大通りと南大通りに囲まれた市街地の中心部 が 、土浦学園線の(通過)幹線道路で串刺しに されて 分断されて いる ために、大規模な 立体交差のペデストリアンデッキが必要になったの です。 外部 とつながる 幹線道路の土浦学園線は、 北の端の 北大通りか 、南の端の 南大通りの位置に配置 すべきであった と思います 。そうすれば、北大通りと南大通りに囲まれた 中心 市街地は、区域内の道路 と 区画 内 の道路だけになったはずで、住宅地内は通過交通を排除するため の クルドサックなど を 有効に機能 させることが出来たと思います 。無理な立体化や厳密な歩車分離ではなく、歩行者や自転車と低速走行の車が共存する市街地の方が、坂道の無い歩行者に優しい、落ち着いた賑わいのある街になったのではないかと思います 。
45度の道路は、外部から訪れる人には本当に使いにくい。交通の専門家から「何でこんなバカげたことをするのだ」と批判されたそうですが、今となっては交通の専門家の方が正しかったと思います。 幹線道路と45度の交差点(三叉路)を2度曲がると、大抵の場合方向感覚が狂います。遠くから見える建物に行こうとしても思わぬ遠回りをしてしまうことがあります。ドライバーの方向感覚が乱されて危険であり、初めて訪れた人の多くは道に迷います。公園などのう回路と思っていたのですが、意図的な設計と聞いてビックリです。アイストップは自分で車を運転する人には、見通しが悪いだけで、不安な気持ちにさせられます。区域内道路は、バスで回る観光道路ではありません。住民や来訪者が自らの責任で車を運転し、事故をおこさぬように目的地に着けることが第一です。見通しの良い道路の方が快適で安全であり、アイストップによる見通しの悪さは、区域内の土地利用の相互連携と柔軟な適応性を阻害しています。このため、土地利用の新陳代謝が進まず、活気が失われており、土地利用の死角による廃墟ならぬ「廃区画」が随所に見られます。アイストップよりも、筑波山をランドマークにした南北の直線道路の方が良かったと思います。一部(偶然に)そうなっている所があります。サンフランシスコの道路体系の様に、幹線道路を外周に配置して、市街地は整然とした区域内道路の体系とするやり方を素直に見習った方が良かったのではないでしょうか?
3.土浦市の教訓 都市計画には幅広い専門家の議論と市民の監視が必要
土浦の高架道は当時の住宅公団の計画で、建設省の依田和夫氏がつくったそうです。
高架道の着地点は土浦駅東口です。東口の前は霞ケ浦なので東に向かった発展は望めません。中心市街地の西口を着地点にすると、メインの西口の交通体系は大混乱に陥ります。つくば中心から土浦駅へのアクセスならば(当時はTXが無かったので)、中心市街地を避けて、北か南にずらせば土浦市の中心市街地の景観を壊すことはありませんでした。
新交通システムは、土浦市内に駅をつくっても市内の交通には役立ちません。つくば中心と土浦駅を直結するために、土浦の中心市街地の景観を台無しにしてもよい論理的な根拠 はどこにも見当たりません。高速道路の高架の下に埋もれてしまった「お江戸日本橋」と同じ様に、土浦市の歴史ある街並みは高架道によって押しつぶされてしまったのです。つくば市の中心部と土浦市街を新交通システムで結ぶとすれば、現在の高架道路の長さは2.7キロメートルなので、これを延長してつくば駅に至るには、さらに7キロメートルも幹線道路の 土浦学園線上に高架道を建設しなければなりません。その採算性を十分に検討したのでしょうか?
当時、土浦市内に住む知識人たちは、雨の中泣きながら反対運動の座り込みをしていました。土浦の高架道は、土浦市民のプライドと街への愛着を頭上から破壊してしまったのです。土浦市の高架道は、杜撰で身勝手な都市計画屋の思い込みがもたらした都市計画の暴力に外なりません。儲かったのは工事業者だけであり、使ったおカネはまわり回って土浦市民の税金です。土浦市の景観破壊による悲惨な現状からは、都市計画には幅広い専門家の議論と市民の監視が必要なことがわかります。つくば市の場合も同様な悲劇に見舞われないために、都市計画においても、民主主義の基本である、「情報の共有」、「対等な議論」、「少数意見の尊重」を徹底させることが必要です。
4.将来の展望 理想のコンパクトシティ
つくば駅周辺は、車中心の社会が続く限り、周辺部から人が集まる商業地にはなりません。前述した様に、ペデストリアンデッキの階層構造と立体駐車場は、買い物や役所の事務手続きの様な「短時間滞在」には不向きだからです。商業の中心は、車によるアクセスが便利な大規模モールやロードサイド店舗が中心にならざるを得ません。商業や行政サービスと、地域住民の交流(助け合い)は分けて考えた方が良いと思います。行政サービスと地域住民の交流(助け合い)は、旧行政区の中心に再構築して地域分権で解決し、その中で個性的な商店やサービスなども選択肢になります。
つくば駅周辺の中心市街地は、無理に「広大なつくば市の中心市街地」にするのをやめて、他にないユニークな居住都市としてコンパクトシティの理想の街として「竹園・吾妻 シティ」を目指す方が良いと思います。脱炭素社会は、脱車社会になる可能性があります。ペデストリアンデッキによる歩車分離の安全な街の特性を生かして、車の要らない街をつくることが出来ます。車中心の社会では時代遅れとなった街区も、脱炭素社会では一周遅れで先頭に立つ可能性も十分にあります。15分も歩けば花室川沿いの水田と農村集落があり、社寺林や旧家の屋敷林もあり、周辺は絶好のサイクリングロードに囲まれています。街の中にはペデストリアンデッキに面した劇場と美術館と図書館の文化施設の3点セットも有ります。
これらの「長時間滞在」型の施設は、立体駐車場でも問題は少なく、風格のある街並みはプラスになります。そして、車の要らないコンパクトシティとして、都心まで45分の立地は魅力十分です。いたずらに高層マンションを敵視するのではなく、つくば市はここで居住者の納税人口を稼いで市全体を活性化すれば新たな展望が開けます。1960年代に車社会に浸ることを潔しとしなかった設計者の理想主義は、21世紀の「脱炭素社会の理想のコンパクトシティ」として実を結ぶ可能性が十分にあります。